努力をするとやる気がなくなる理由―モラル・ライセンシング効果 written by 池上秀志

努力をするとやる気がなくなる理由―モラル・ライセンシング効果 written by 池上秀志

1.モラル・ライセンシング効果とは何か

人には道徳的に良いとされている行為をするとその反動で悪いとされていることをしてしまう傾向にあります。見ず知らずの他人に施しを与える人間が家族には粗暴にふるまっていたり、生徒の前では道徳的な人間であろうと心掛けている高校の先生が、生徒の大学や実業団への進学や入社と引き換えにお金を受け取っていたとしても、全く不思議なことではありません。もっと悪い例では無抵抗の犯人や囚人に暴行を加える警察官がそうかもしれません。
モラル・ライセンシング効果の根拠は、人は常に善悪の間で揺れているが、善い行動を起こすには意志の力が要求され、善い行動をした後には少しくらい悪いことをしても良いかと考えてしまう傾向にあることです。これは逆も同じで罰金などによって償いをした場合には、罪悪感が薄れてしまうことがあります。アメリカの国立自然公園でごみの投げ捨てを行った人に罰金を科したところ、罰金を科す前よりもごみの量が増えてしまったという例があります。
このモラル・ライセンシング効果が馬鹿げていることの一つはその行為について考えただけでも自分は良いことをした気分になってしまうことです。普段から道徳的なことについて語っている人はそれを実践しなくても、道徳的なことをした気分になり、少しくらい悪いことをしても良いかと思えてしまうことです。
二つ目の馬鹿げた点は、「今日はおばあさんの荷物を歩道橋の上まで運んできたから、腹筋はやらなくてもいいや」のように関係のないことにまで適用されてしまうことです。勿論、これはほとんど無意識のレベルで行われています。
結局のところ、道徳的行為というものが「やりたいわけではないけど、やらなくてはいけないもの」若しくは「やりたいわけではないけど、やると賞賛に値するもの」である以上仕方ないのかもしれません。つまり、道徳的に善いとされているものを実行に移すには意志の力が必要とされ、それを行為に移した後には意志が疲弊してしまうのです。

2.マラソンとモラル・ライセンシング

各社会、民族、国家にはある程度共通の道徳的規範があり、それは人助けや相互扶助のようなものにとどまりません。日本人にとっては勤勉や努力もそれに含まれます。それは道徳の教科書に二宮金次郎や野口英世が出てくることからもうかがい知ることが出来ます。
努力や勤勉という意識に基づいて練習したり、食事を決めたり、睡眠や体の手入れに重点を置いた生活を続けていると、どこかでモラル・ライセンシング効果が働きます。つまり、「昨日は9時に寝た、自分は偉い」、「今日のインターバルを頑張れた、自分は偉い」と思うたびにどこかで「ご褒美にちょっとくらい夜更かししてもいいや」、「今日は頑張ったから、明日の練習はサボってもいいや」というふうになってしまいます。確かに、規律正しい生活と肉体的に厳しい練習を続けることは他人から見れば凄いことかもしれません。しかし、それをやりたいと望んでいるのはあなた自信なので、それは決して「偉いこと」でも「立派なこと」でもありません。このことを自覚していれば、意志の力が疲弊した末に、モラル・ライセンシング効果によって自分を駄目にしてしまうような行為を避けることが出来るでしょう。
ストイックな競技者にありがちなことですが、これらの人々は先ず、頑張った自分を偉い、立派だと思います。その人が日本人であれば、あからさまに人前でそれを口にすることはないと思いますが、自分自身に嘘をつくことはできません。「頑張ったんだから、これくらいいいや」と思って、自分が悪いと考えている行為(例えば、板チョコを一枚全部一度に食べる)をしてしまいます。そして、後から自分を責め立てます。詳しくは割愛しますが、人間は自責の念にさいなまれると、どうでもよくなって更に悪い方向へと自分を追い詰めていきます(例えば、二枚目の板チョコに手を出す、若しくは板チョコとアイスクリームに手を出す)。これを心理学の世界では「どうにでもなれ効果」というそうです(これは本当に正式名称でしょうか?おそらく誰かが英語を無理やり訳したんだと思いますが、誰か知ってたら教えてください)。

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3.努力も怠惰も全て幻想

注目すべき点はこれらいわゆる「善い行為」も「悪い行為」も競技にとって本質的に良いか悪いかとはあまり関係ない場合が多いことです。例えば、消灯時刻というものが決まっている大学のチームが多いですが、必要な睡眠時間をとる目的は練習で傷ついた組織の修復を促し、トレーニング刺激に対する適応を引き起こすことと、次の練習に備えて心身ともに準備をすることです。私はだいたい9時に寝ていますが、9時に寝ること自体に意味はなく、人によって何時に寝る必要があるかは異なるでしょう。同じ人間の場合でも、夏場に次の日が距離走で早朝にスタートするから、4時半に起きる必要があるという場合には可能な限り早く寝ます。この辺りのことを理解していない人は、私が9時に寝るというと「ちょっとくらいいいやん」とか「もうー、真面目やな」と言いますが、そういう問題ではなく私としては「いや、マジでもう寝たいから」という感覚なわけです。
同様に、アルコールの摂取や異性と遊ぶことも本質的には、それ自体は悪いことではありません。ビールジョッキなら1杯、ワイングラスなら2杯までと決めておけばいい訳ですし、異性と遊ぶのも、同性と遊ぶのも違いは何もありません。夜更かししたりして、睡眠不足で練習に出てくるのが問題なだけです。
本来、陸上競技やマラソンをやるにあたって、やらねばいけない、若しくはやると立派であるという意味での「努力」など存在しません。そうあるべき行動規範がなく、あるのは「自分がどうなりたいのか」と「そのためにプラスの行為とマイナスの行為」があるだけです。中山竹通さんもおっしゃっていることですが、先進国である日本のマラソンが強くなければならない理由など何もなく、選手自身もマラソン選手として成功しなければならない理由など何もありません。それにもかかわらず、「努力家」とか「ウサギとカメ」とか言われるのは全て幻想です。それを幻想と気付かないのは、その幻想を共有している人があまりにも多く、日本語しか話さない人からすれば、それがその人の主観的世界のほぼすべてだからです。
私も走るのが好きで走っているうちの一人ですが、本来走らなくてもいいのに走っている人たちが、「努力」という幻想を追い求めて、意志の力を疲弊させ、やらなくてもいい「いわゆる悪いこと」に引き寄せられ、更に生真面目な人は自責の念に駆られて「どうにでもなれ効果」まで発動させてしまうのは悲劇でしかありません。
努力せずに、やりたいことだけやるのが自分の力を最大限に発揮する方法だということは、何度も過去記事でも書いていますが、今回はまたちょっと違った観点からもこのことが納得していただけるかと思います。

参考文献
ケリー・マクゴニガル著『スタンフォードの自分を変える教室』神崎朗子訳
無能唱元著『得する人』

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